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八丈島にある酒造会社。八丈島酒造合名会社

メディア掲載情報

2015年10月 ハワイ報知「故郷便り」で八丈島酒造が特集されました

二週にわたりハワイ報知新聞に  
掲載されました  
杜氏の焼酎に対する想いを  
綴りました

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東京都八丈島の伝統文化を愛して

ハワイのみな様へ
はじめまして奥山清満(おくやまきよみつ)と申します。
わたくしは八丈島に生まれて高等学校・専門学校時代は東京都内ですごしましたが、その期間以外はずっと八丈島で生活をしております。
祖父が起業して酒類製造業を営んでいた関係上、父より早くから後継者として後を継ぐように言われてきました。(本格焼酎の造り酒屋)酒類製造業を任されるようになってから35年ほどになります。
その間様々なことがありましたが、おかげさまで、本年創業100年を迎えました。
100年もの間、本格焼酎を造ってこられましたのもひとえに皆様のおかげと心より感謝申し上げます。

八丈島には伝統文化を大切にするこころがあります。
そのなかに紬で有名な織物でとても高価な「黄八丈」とよばれるものや、八丈太鼓などの芸能文化、そして今に伝承されました本格焼酎があります。
ここで少し私どもの大切にしている焼酎文化について説明したいと思います。
江戸末期1853年(嘉永6年)回漕問屋を営んでいた丹宗庄右衛門は、広東繻子などを取引した江戸の問屋の密告により捕えられ、15年の刑で八丈島へ送られました。
当年で有名な出来事といえば、アメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船を率いて日本の浦賀沖に到着した年でもあります。
八丈島に流された丹宗庄右衛門は大賀郷字東里地区にすみ、故郷の薩摩出水郡阿久根より甘藷の苗と焼酎造りの製造器具一式を取り寄せて、島民にさつま芋作り・さつま芋からの焼酎造りを伝授しました。
丹宗庄右衛門はさつまじいとよばれ、島民から大変尊敬をされていました。
後に刑期を終え、明治元年12月に赦免され鹿児島県阿久根にもどりましてから生涯を終えましたが、島民にとって生活の向上や経済の発展など少なからずとも貢献された業績に対してその徳をたたえ、明治42年8月大賀郷護神山に島酒之碑が建立されました。

その後、先人によって焼酎文化は絶えることなく受け継がれて来ました。
祖父の奥山清五郎が起業し創業100年を迎えましたが、今では八丈島で最も歴史の長い造り酒屋となりました。
そして今より30年ほど前は、八丈島の人口は12000人ほどで、蔵元も6件ありましたが、今では人口8000人ほどに減少し、蔵元は4件になりました。
ほとんどが後継者不足に悩み断腸の思いで廃業せざるを得ない状況のように見受けられます。とはいえ、8000人に対して4件の蔵元ですから、八丈島の人々がいかに焼酎を愛しているかがうかがえます。
長い間丹宗庄右衛門の焼酎造りを伝承してこられた方々や、原材料となるさつま芋を作り続けてこられた方々があって、今の八丈島の焼酎文化を築き上げたと思っています。
そのような意味でも私どもは島の人々に感謝して、さつま芋を作ってくださる農家の方々を大切にしなくてはいけないと思っています。

わたくしは八丈島焼酎を文化と考えるようになってから、ずいぶんと考え方もかわったかもしれません。
病弱な父にかわり若くして焼酎造りを受け継いだこともあり、思うような原材料が手に入らなかったり、売れるか売れないかに振り回されたり、また長い間資金不足に悩まされたり、ずっと試練や試行錯誤の連続でした。
八丈島産さつま芋焼酎にこだわったせいか、社会の主流は軽くてくせのない麦焼酎だったのでまったく売れない日々でした。それでもいつかは自分のこだわりの焼酎をつくる、つくってみせる、芋焼酎が認められると信じて毎年仕込みをしておりました。
そして昨年度、念願のさつま芋焼酎「江戸酎」を発売することができました。
もちろん今も焼酎へのこだわりや追求に対してのおもいは続いておりますが、原材料などを選んで造ることができるようになったため、今では八丈島産さつま芋・国産麦で焼酎を造っていることに幸せと誇りをもっております。
それでも焼酎造りにたいしてあれもしたいこれもしたいと飽くなき夢に終わりがないのですが、いつかは八丈島産麦で焼酎を造りたいとも考えております。

私ども100年続いた蔵元ということもありますが、丹宗庄右衛門より伝承されてから162年もの間、島民の方々で守られて愛されてこられた島焼酎を今後にどう伝承していくか、今や私も61歳!後継者を育てなくてはなりません。今後もさらに夢とこだわりをいだいて邁進してまいります。
そして近い将来、ハワイの方々に是非私の焼酎を飲んでいただきたいものです。

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